昭和42年07月20日 夜の御理解
「変人になれ変人とは直い事ぞ。」と
信心する者は変人になれよと、変人とは直い事ぞと、そういう変人というか、変人とは直いと云う事、是が本当だと云う事が、お互いの信心の筋金にならなければ、いけないと思う、いわゆる性根とでも申しましょうか、根性とでも云うかね、そう言う一つの、根性というものが、どんな場合でも、それを曲げない熱、てつ心とでも言った様な物が、貫かれなければ、本当の神様の喜んで下さる様な、又私共も勿体ないと思う様な、おかげにゃ成って来ないのです。
ですからそこんところをひとつ皆んなが、ならどういう風にある事が変人なのか直い事なのかと、それが本当自分よがりであってはならんのですよね、是が本当じゃないか、というてそれが只そのう、自分だけが本当だと思い込んでおるというのであってはならない神様が御覧下さってから、それが本当だと思われる。その事なら人が何と云うてもね、それは曲げてはならん、それを貫かして頂く事が信心である。
そういう事を変人と、変人にならなければ信心は出きんと、本当の信心は出来るもんじゃない、人間心を使う、便乗主義、妥協主義。信心にはそういう、妥協なんかと言う物はあってはならない、そこんところを、皆さんはひとつ、皆さんの、性根というか皆さんの筋金というか 皆さんの変人とは、直い事と仰る。その直いものがです、一本ちゃんと通っとらなければいけん。
どんなにあの人は正直者である と言う様な場合であっても、あの人は中々仏様の様な人じゃと云うてもね、そこん所をぐらつかせる様な事では、矢張り本当のおかげになって来ない、神様が喜んで頂く様なおかげになってこない、自分も本当におかげを受けて有難し勿体なし、というようなおかげになって来ない、お互いの信心の筋金が。どういうところに入っておるだろうか、又、直いと確信しておる事が。
自分の信心の中心を流れておるか、それが言わば信心の命だと言う様な風に、確固たる物になって行きよるかそこんところをひとつ皆さん、おかげ頂かなければいけません。いわゆる馬鹿のひとつ憶え、それでも良いのです、それが本当だという事をですね。今日はあのう、二た月に一回ずつこの築水連合会の教会、二十何ケ所の教会が、教会にある教会に集まって、色々な会議が御座います。
今まではここは布教所ですから出なかったんです、よその布教所は出ていない様ですけども、合楽には出て貰う方が良いと言う様な話があって、親教会から電話がかかって参りました。今朝から西久留米の教会でやるから、その前にあんたと打ち合せをしておきたいから、出て来る様にと云うて、ここの若先生がその電話を受けた。勿論若先生がここの布教所の所長という事になっておりますから、先生がまいりました親先生から色々と知恵を付けられるというか、色々とあちらへ行ったら合楽の話が出るだろうから。
確かにこの教会設立問題と、言った様な問題が出るであろうから、その時にはこう言う風に挨拶をせよこう言う風に云わなければならん、と云う事を教えて頂いた。是は私と私の云うておる事じゃない、是は東町からの先生がこういう風に知恵付けて下さったから、そしてその事はひとつも帰って聞かせて頂いてから、成程もっともだと云った様な事を東町でも善導寺の親先生でも、長男に若先生がそれ聞いております。
ところがですね矢張りあのう、人に云われた事をそのまま云うと云う事は、中々難しい事です実感が伴わない、不思議なんですね、こういう風にお話をしなければならないというて、その話の筋を作っておる事をその筋通り話さなきゃならない事は力を入れてはならない処に力が入ったり、力を抜いても良い処に力が入ったら力を入れなければならん所に力が入らなかったり、と言う様に矢張りその生なものじゃないから。
本当に、んなら聞く者としてその人の胸にこう応える、響いて行くと言う様な事になって来ない、確かにそうですね、ですから話聞いとったところが却ってそういう話をして、ははあ、こりゃ久留米関係、いわゆる合楽、善導寺、例えば東町辺りが組んで、ひとつの芝居をしてあるなあと云う風に、まあ見られ聞かれたらしいんです、その反響を聞いてそれが分かるんですね。
その事は甘木の、今日は親先生という方も見えておられた。 甘木関係のいうなら物言いの先生達も見えておられてたから、それに対して言われておられる事を聞いただけでです、はあそれが効果的ではなかった、と云う事が感じられる様な状態である、そして帰ってから又合楽教会、親先生と一緒に帰ってから、色々お話さして頂いておる中にです、私があの教師資格の場合でも、もう本当言うたら私ゃどうでも良いのだと。
私のこの実感としては、けれども三代金光様が、道の教師としておかげを受けられたがよかろうと云うお言葉があったれば。分かればこそ教師にならして頂く事を、願い立たして貰又、善導寺の親教会親先生、親奥さんもその事を願うておって下さるから、そうさして頂いただけの事、学院に行かなければならんといや、学院に行く気持ににもなれ、なったし検定受けれといや、検定を受ける気持もなって、まあおかげで金光様のおヽして下さった様に、教師としての資格を頂く事が出けた。
その間でも、もう私は自分の信念というものは、一つも曲げてはいない、同時に今度 教会問題でもそうである、私は初代教会長として、例えば今日の若先生の話を聞いて、そん中に一人でもです、そりゃそうだろう、そう云われるのが本当だ。それが人情だと、そりゃ問題じゃないじゃないですかと、早くそう言う様な手続きを取られたら問題じゃないです。じゃないですかと誰か一人、云うてくれりゃ問題は解決するんだけれどもそこに何とかかんとか、色々な美しい言葉で云うけれども。
その問題が前にゃ全身出来ない様な状態にある訳なんえすね。それで又次の手を打たなければならない。と云う事になっておる訳でしょうけれどもですね。それとてもそうなんです。だから、んなら私に私がどうでもこうでも、初代教会長になりたいから、どうぞ宜しくお願いします、という風にまあ、云えばいいらしいけれど、私は実際に気持はそうじゃないから、ね。やっぱりどうでも良い主義なんです。
親先生夫婦がどうでも、やっぱり初代教会長にするなら大坪さんをと。又、信者全部の方達の願いも、折角初代教会長として立って頂くならば、親先生をと云う親と子の願いの中に私は、それから、というてその、いぃや自分はならんと云うのでもない、なると云うのでもない。こりゃも、そもそも合楽の始まりがそうなのである。と始めからお道の教師になろうと思うて、思うた事ではなかったんだけれども。
人々の助かるようになって教会の様な形を取る様になり、現在に至っておることで御座いますからね。そう言う様な事を、先程若先生達と話しておりましたら頂きますことがね、あの扇子白扇のこう真ん中に大きな骨が一本通っておりますよね、裏表にあれを頂くんですよ。やっぱり私は此の生き方が本当だ、だからもし私のが、どうでも良いと言った様な事を云うとるから、なさんと云う人がもしあるとするならです。
その人にそれこそ見参したい。そしてチャンスがあったら話したい。私の云う事が違うておるのか、本当であるのか。そうでもあろうけれども、ここんところは貴方が成りたい様な顔をしてから、どうぞお願いします、といやあ、なれるんだから、というてもそげな事でなら、ならんでも良い。 ここが私の変人振りと、言わば発揮して行く所なんです。成程それが良いかも知れん、話ゃスム―ズに行くかも知れん、けどもそれでは、おかげんならん、私じゃなくてから教団の生き方が、もだめだ。
こう云う事では、本当に教団の発展の事を思うなら、私は本当の私の信心を打ち出していって、それがおかげを頂いて行くと云う事にならなければ。私ゃ教団の発展ですらが、今にそう言う様な生き方、人情人間心を持って言えばどうかなる、と言う様な生き方で、教団がの歩みと言う物があるならばです。あり方がそう云う事であるならば、そう言う事はひとつ打破して行かなければいけないと思うから。私を犠牲にしようなんていうのはその、そういう勇ましい心じゃない。
只当たり前の事を当たり前に、言わば変人振りを発揮していかなければならんと。そう思わして頂いたらあの扇子の骨、扇子の骨がどうでしょう、離れておったりしたんでは こう広がりませんものね、椛目から合楽に、そして今日こうやって段々末広がりに、広がって来ておると云う事は、私のそう言う様な、ひとつの根性というかね。その性根というかね、言わば変人になれ、変人にならんと信心は出けんと仰る。
変人振りを発揮し抜いたら 私と親教会の問題だってそうである。私が人情使うて、こうすりゃ親先生は早くもっと分かって頂く事もあろうけれども、人情で分かって貰ったんでは、ほんなもんじゃない。本当の親との継ながりは出来るもんじゃない。只私は是が本当だ。という信心をさして頂いて、それを分かって頂いた時が、本当に私と親教会のおかげを頂く時である。
私はそう確信しておるから、それが時間が掛ると言った様な事は問題じゃない、ここの教会問題でも同じ事、その為に教会になれなかったり、教会長に私がなれないとするならば、それは三年五年掛ってかんまん。私ゃそう何時の場合でも思うのです。今日はその事を話を聞きながら思うておったら、只今申します様に白扇の、あの骨を頂くんです、真ん中の中心の骨なんですね。
是が例えば紙から外れたら、そこが私の信心からはずれたらね。その事は成就するかも知れんけれども、末広になるおかげにはならないね。皆さんここんところはですね。そん目先のその事が成就せりゃいい、と言った様な事ではダメなんです。皆さんの各々の上においても同じ事、そこで私が思うのはです、自分の変人振りと言う物を何時も、やっぱり検討しておかなけりゃいけません。
ただその変人がです、只普通で云うまあ、ふうが人といいますか、じゅうげもんといいますか、で、只押しておるというのならばです、それにはです、末広がりのおかげは伴うて来ません。自分の心の中にも有難いと言う物は消えて行きます。私はそう言う一つの自分の生き方と言う物を打ち出して行く所に、私の心の中には絶えず神様を信じて止まない、信念の一つの泉と言う様な物が、何時も喜びになって湧いて来るのである。その喜びと云うならおかげが一つずつでもこう広がって行く。
末広になって行くおかげの頂けれる物でと、いうその裏付けがあらなければ、あんたの変人振りもどうもおかしい。と言う事になる訳なんです、自分の心の中に頂く信仰的喜びと、信念の泉がの様に湧いて来る。その事を、おかげと言う物が一切伴うていかなかったら、私は何時もそこの処見ておるなら、私の云うておる事に間違いない。私の云うておる事が本当だと、誰々が何と云うても、どういう偉い先生がそれを云われても、それは先生の仰るのは、それは人間心なんだ。
だから私 その先生ならば例えば、所長なら所長なんかは、言わば北九州地区の所長というのですから、一番偉い先生と云う事になるでしょうが。その一番偉い先生が思うておられる事と、私の思うておる事が一致しない限り、椛目の合楽の教会問題は成就にならないだろう。だから私の云う事が分かって下さらん様な先生ではない。と私ゃ確信するけれども、そういう言わばチャンスを願いさえすれば良い。
わざわざ私が行って私の言い分を聞いて貰いたい。説明しようとは思わないけれども、そういう機会が来たならば、私のこう、私ゃ是を本当だと思うておると云う事を聞いて貰いたい。と思うんですけれども、ま、是はひとつの一例ですね、信心する者は変人になれよ、変人にならなければ信心は出けん、変人とは直ぐい事ぞ、と。是直い、是が真っ直いんだと教祖の神様でも、こう、ておられるであろうに間違いないというです、あり方をです、自分の信心の筋金にして行かなければいけません。
どうでしょうか皆さん、そういう筋金がです、通って行きよりますでしょうか。ちょっと、こちらからそれに妥協する、それに便乗する、言葉には態度には、それは場合によっては、それに妥協した様にしとかなければならん事も、あるかも知れませんけれども。心の底には、いわゆる肝心要の、ここんところは間違ってはならない。私はかくと信ずると言う所を、自分の信ずる、その道を本気で歩かして頂いたらいい。
歩いておれば心の中に喜びが湧く。歩いておれば、必ずそれとは違った意味合いでの、おかげが伴うてくるね。そこんところを見定めながらです、自分の信心を進めていかなければなりません。変人にならにゃいけません。筋金が通りません。そういう変人振りなら何処ででも発揮するがよろしい。そして金光様の信心すりゃですね。場合によっちゃ、はあ、もう硬い事云わんでも、と言う様な事があるかも知れません。
けれども、おかげを頂いた暁に成程あれが本当だなあ、本当におかげ頂く為に、ああいう中でいけんのだなあ、ということを。皆んなに分かって貰える。椛目から合楽に掛けてこうして段々おかげ頂いておる事も。矢張り私のそう言う様な、ま、馬鹿のひとつ覚え、とでも申しましょうか。そう言う様な事が狂わない処にです、段々何とはなしに、末広のおかげを受けておるのではないかと、私は思うんです。
どうぞ。